2017年11月10日金曜日

「古代書物史」の試み

藏中しのぶ氏編『古代の文化圏のネットワーク』刊行


2017年11月10日、竹林舎より、シリーズ「古代文学と隣接諸学」第2巻の、藏中しのぶ氏編『古代の文化圏のネットワーク』が刊行されました。

中央アジア・唐・朝鮮半島との交流を広く視野見渡しながら、古代の日本文学・文化を考察した、今までにない論文集です。


私も、「日本古代書物史序章」という論文を寄稿しました。

(A5判、560頁、竹林舎刊)

日本古代の〈書物〉文化については、従来、日本文学研究の基礎学としての書誌学、また、仏教学、写経研究、日本史学、古文書学、美術史学、古筆学などがそれぞれに研究が進められてきました。この論文では、中国文化圏の動向を視野に入れつつ、漢訳仏典・漢籍・「国書」(日本で撰述された書物)を、〈書物〉の物質性という視点からトータルに捉えることをめざしました。

「序章」と銘打ったように、この論文では、5~7世紀までの、日本古代の〈書物〉文化の始発を歴史的に記述することを試みました。

【「日本古代書物史序章」目次】
一 〈書物〉という視点
二 「ふみ」という語
三 〈書物〉の伝来
四 推古朝の“書物”の問題
五 「一切経」の読誦と経典の講読
六 経典に護られた国家
七 日本古代の〈書物〉文化
主要日本古代書物一覧(年表)

文書も〈書物〉も、一体の「ふみ」として捉えていた日本人が、激動する東アジアの政治状況の中で、政治性を強く持ち、宗教的呪術的な「兵器」とさえ言えるような役割をも担うものとして、〈書物〉を自覚していった過程を辿りました。

大英図書館蔵スタイン・コレクションの敦煌写本の調査を進めながら、この論文を執筆しました。敦煌写本の手触りに即しながら、中国文化圏の〈書物〉の役割について考察しました。

分野を超えた議論の場を提供することができれば幸いです。

《お詫び》
海外で執筆し、私の不手際で、校正回数が少なかったため、誤植が多々あります。お許しください。
531頁12行 『摩訶般若波羅蜜多経』 → 『摩訶般若波羅蜜経』
532頁01行  同 上
533頁09行 六世紀前半の日本で、 → 七世紀前半の日本で、
534頁01行 六世紀前半段階で、 → 七世紀前半段階で、
「主要日本古代書物(年表)」
*ゴシックにしなければならない書名が、そのままになっているものがあります。

2016年4月30日土曜日

『古写本の魅力』刊行

『万葉集』の古写本研究の現在




2016年3月23日に、高岡市万葉歴史館館長坂本信幸編『高岡市萬葉歴史館叢書28 古写本の魅力』(公益財団法人高岡市民文化振興事業団 高岡市万葉歴史館)が刊行されました。

2015年8月1日(土)・2日(日)に開催された、2015高岡万葉セミナー「古写本の魅力」の講演録です。このセミナーは、特別企画展「萬葉集のすがた―新収蔵品を中心に」とともに、高岡市万葉歴史館に、特別展示室と新たな図書閲覧室が設置された記念事業として、開催されました。

特別展示室で見た古写本について、講演を聞き、さらに講演を踏まえて、古写本を熟覧する、という贅沢な企画でした。



(A5判、94頁、高岡市万葉歴史館にて販売)

私も講師の一人として参加しました。
セミナーは、さまざまな角度から、『万葉集』の古写本の意義を改めて確認するものでした。


【目次】
高岡万葉セミナー 古写本の魅力
校訂を通して古写本の魅力を考える(平舘英子)
テキストとしての廣瀬本万葉集(乾善彦)
春日本万葉集と古葉略類聚鈔―中臣祐定の万葉学―(田中大士)
平安時代の萬葉集古写本における装丁・料紙・書の交響―桂本萬葉集を中心に―(小川靖彦)

平舘氏は、現代とは異なる、平安時代の万葉集古写本の読み下しを、具体例を挙げて論じ、乾氏は、廣瀬本万葉集全体を精査して、その読み下しが一つのテキストを参照して書写されたものでないことを明らかにし、田中氏は、中世の中臣祐定が、春日本と古葉略類聚鈔との間で、異なる書写態度をとっていることを解明しています。

私は、桂本万葉集の料紙を、顕微鏡(至近焦点スコープ、デジタルスコープ)で観察した結果を中心に、桂本が装丁・料紙、そして書写において、丁寧に制作されたものであることを、改めて確認しました。

桂本万葉集の料紙の調査にあたって、その断簡を所蔵する、公益財団法人野村文華財団野村美術館、公益財団法人五島美術館、公益財団法人出光美術館に大変お世話になりました。一枚の断簡を見るたびに、その料紙と書の美しさに魅了されました。

そして、顕微鏡で覗いたその料紙の世界は、紫に染められた繊維が万遍なく散らされた、実に端正なものでした。その様子をカラー撮影しましたが、この本では、モノクロにせざるを得ず、これを見たときの感動を伝えられないのが残念です。

『万葉集』の古写本には、まだまだ私たちの知らない世界があります。そして、私は、古写本の魅力とは、「それぞれの萬葉集古写本の表情の裏に潜む、その写本を制作した人々の息遣いふ触れること」(89~90頁)だと、改めて思いました。

*『万集』の古写本特集という、極めて貴重なこの本は、高岡市万葉歴史館でしか購入できません。是非お問い合わせください。
高岡市万葉歴史館

*なお、この28集を最後に、『高岡市萬葉歴史館叢書』がその歴史に幕を閉じるとのことです。学生の時に、一般向けでありながら、高度の内容のこの叢書から、多くを学びました。講演者が論文以上に思いきった考えを述べていることを大変面白く思いました。そして、私自身も何度かセミナーでの講演と執筆の機会を賜りました。1991年の1集から今日に至るまでの分厚い蓄積が、高岡市万葉歴史館の新たな飛躍の礎となることを、心よりお祈り申し上げます。
高岡市萬葉歴史館叢書目次

2015年7月10日金曜日

第1回上代文学会夏季セミナー「萬葉写本学入門」のお知らせ

『萬葉集』の古写本を基礎から学ぶセミナーです


来る2015年8月21日(金)に、第1回上代文学会夏季セミナー「萬葉写本入門」が開催されます。

上代文学会夏季セミナーは、主に大学院生を対象として、日本上代文学研究を進めるために必要なメソッドを伝えることを目的として、2015年より開催されることのなった、上代文学会の新たな企画です。

また、日本上代文学を専攻する若手研究者だけでなく、平安文学・中世文学・近世文学・近代文学、日本史学・古文書学・日本思想史などを専攻し、『萬葉集』や『古事記』などの研究史や享受史に関心を持っている方々にも、是非参加していただきたいと思っております。

上代文学研究のメソッドや研究成果を伝え、研究情報を共有する機会としたいと考えております。

第1回は「萬葉写本学入門」です。

現在、『萬葉集』の写本研究は、日本上代文学研究の中でも、最も熱い研究分野となりつつあります。
原典にもどることで、新しい研究テーマが見えてきます。

そして、原典である写本を扱うためには、専門的な知識と技術が必要です。それをわかりやすく解説します。

「萬葉写本学」の世界の豊かさを是非体験してみてください。

大学院生に限らず、学部生の皆さんも参加できます。『萬葉集』の古写本に関心のある方ならばどなたでも大歓迎です。

開催要領は下記の通りです。

開催日時・会場
2015821日(金) 13:0017:30
青山学院大学青山キャンパス 総研ビル3階 第11会議室
150-8366 東京都渋谷区渋谷4-4-25  
JR山手線、東急線、京王井の頭線「渋谷駅」宮益坂方面出口より徒歩10
東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線「表参道駅」B1出口より徒歩5

プログラム
12:30~    受付
13:0013:05 開催挨拶     上代文学会代表理事 梶川信行(日本大学教授)
13:0513:10 第1回セミナー趣旨説明        小川靖彦(青山学院大学教授)
13:1013:50 講義⑴『萬葉集』の諸本、系統       田中大士(国文学研究資料館教授)
13:5014:30 講義⑵『校本萬葉集』の理念と方法     小川靖彦(青山学院大学教授)
14:3015:10 講義⑶『萬葉集』の受容史         城﨑陽子(國學院大學兼任講師)
15:3016:10 ワークショップ「写本の見方」  新谷秀夫(高岡市万葉歴史館学芸課長)
16:3017:30 ラウンドテーブル(懇談会)
                  総合司会:景井詳雅(洛星中学・高等学校教諭)
18:0020:00 懇親会

参加要領
《参加資格》
・上代文学会夏季セミナーは、主に大学院生を対象にしていますが、学部学生も参加できます。日本上代文学研究のメソッドに関心のある方なら、大学院生・学部学生でなくとも参加を歓迎します。
・上代文学会会員・非会員であるにかかわらず、参加することができます。
《申込方法》
2015731日(金)必着で、下記のメールアドレスに参加者が直接申し込んでください。これは事前に人数を確認するためのものです。当日参加も可能ですが、できるかぎり事前にお申し込みください。
yasuhiko.ogawa122[at]gmail.com
・申込メールは、件名を「上代文学会夏季セミナー申込」として、本文に氏名、所属(大学院生・学部学生の場合は学年)、学会員・会員外の別を明記してください。
《参加費用》
・資料代として、当日お一人500円をいただきます。
《懇親会について》
・懇親会に参加する場合には、メールの本文に「懇親会参加」とお書きください。会場は青山学院大学青山キャンパス周辺の予定です。懇親会費は、4,000円程度と考えていますが、参加人数によって変わります。

《問い合わせ先》yasuhiko.ogawa122[at]gmail.com 


2015年5月5日火曜日

変化する文学作品の「本文」












(大木惇夫詩集『海原にありて歌へる』国内版初版、カバーは再版の際のもの)

ジャカルタ版大木惇夫詩集『海原にありて歌へる』


私たちは、『万葉集』などの古典文学の「本文」を固定的なもの、不変のものと考えがちです。しかし、書物学の立場では、古典文学の「本文」とは、書や版木・活字、そして、「書物」の素材・装丁・レイアウトによって、その都度、姿を与えられるもの、と考えます。「書物」の外形に応じて変化してゆくものが、「本文」であると捉えるのです。

ここでいう“「書物」の外形”とは、単に物質的(フィジカル)なものをさすのではありません。書写者の美意識や、編集者の判断、その「書物」の制作を命じた人の意図、時代の要請、またはもっと漠然とした時代の雰囲気なども含みます。

最近、日本近現代詩の「本文」について調べる機会がありました。最初に発表された雑誌、最初に収められた詩集、再版本、再編成されたその詩人の個人詩集、晩年の全詩集などの間で、「本文」が大きく揺れていることに、驚かされました。

詩のことば自体が、変わっていることもあります。しかし、それだけではなく、句読点、スペース、空行(連分け)、漢字表記(漢字にするか平仮名にするか、どの漢字にするか)、送り仮名、振り仮名などの細かい点にも、変化がありました。

その異同をきちんと記録しようとすると、古典文学の場合よりも難しいと言えます。そして、それらのさまざまな「本文」を見比べていると、どれか一つが“正しい本文”であるとは思えなくなります。その時々の、作者の意図や、編集者・印刷者の意識、さらにその背後にある「時代」を反映したものとして、それぞれ独自の価値を持っているのです。

今回の調査の中で、最も深い感銘を受けたのは、大木惇夫(おおき・あつお18951977)の詩集『海原にありて歌へる』の「本文」です。北原白秋に師事して、詩を制作していた大木は、太平洋戦争で海軍報道班員として、ジャワ島攻略戦に従軍しました。その経験を作品化した詩を集めて出版したのが、詩集『海原にありて歌へる』です。

大木はこの詩集によって、日本文学報国会から第一回大東亜文学次賞を受け、一躍、「戦争詩」「愛国詩」の名手として、人気を博することになりました。そのため、戦後には、文学者たちから戦争協力者として烈しく批判され、今日では、詩人としてのその名は忘れられています。

実は、詩集『海原にありて歌へる』には、1942年(昭和17111日にジャカルタのアジヤ・ラヤ出版部が刊行した現地版と、1943410日にアルスが刊行した国内版の二つがあります。日本国内で人気を博したのは、国内版の方です。そして、『大木惇夫全詩集』(金園社、1969、復刻版・1999)に収められているのも国内版だけです。

ところが、現地版と国内版とで「本文」が大きく違っているのです。その典型が、「椰子樹下に立ちて」という作品です(活字の種類・大きさ、細かいレイアウトなどの違いは、省略します。旧漢字は新字体に直しました。行頭の番号は引用者)。

【現地版】

     椰子樹下に立ちて
              ××の宿営にて
1    極まれば死もまたかるし
2    生くること何ぞ重きや、
3    大いなる一つに帰る
4    永遠(とは)の道たゞ明るし。
5    仰ぐ空、青の極みゆ
6    ちり落つる花粉か、あらぬ
7    椰子の芽の黄なる、ほのなる
8    ほろほろとしづこゝろなし。

【国内版】

     椰子樹下に立ちて
                   ラグサウーランの丘にて
1    極まれば、死もまた軽し、
2    生くること何ぞ重きや、
3    大いなる一つに帰る
4    永遠(とは)の道ただに明るし。

5    わが剣(けん)は海に沈めど
6    この心、天をつらぬく。

7    ()かる妙(たへ)、雲湧く下(もと)
8    散り落つる花粉か、あらぬ
9    椰子の芽の黄なる、ほのなる
10   ほろほろと、しづこころなし。

大木は、ジャワ島バンダム湾で、味方の魚雷の誤射によって乗船していた佐倉丸が沈没し、海に投げ出されました。この「椰子樹下にて」は、九死に一生を得た大木が、ジャワの美しい風景の中で、生きる喜びに満たされ、「死」も永遠に連なるもの、と悟った作品です(国内版の末尾に大木自身による解説が付いています)。

現地版56行の、極まりない空の青さと、その中を椰子の黄色い花粉が散り落ちるという情景は、「生と死」と超えたものを感じさせます。

ところが、この情景が国内版では、56行のような壮士的述懐のことばと、7行のような
「日本神話」的な情景に、大きく変えられています。

確かに、国内版の「本文」で読むと「椰子樹下に立ちて」は、「戦争詩」であると言えます。しかし、現地版では、南国の明るい自然の中で「生と死」を感得した作品となっています。

大木の詩集『海原にありて歌へる』は、戦争下では、もっぱら国内版で読まれ、また最近の研究も、国内版によって進められているようです。現地版は、私の知る範囲では、現在公共図書館・大学図書館では国立国会図書館(デジタルコレクション)と岐阜県図書館の蔵書があるのみです。


現地版と国内版の「本文」を詳細に比較することで、大木の詩の基層にある高い抒情性、その抒情性を大木が戦時体制とどのように融和させていったか、なぜ国内版がそれほどまでに銃後の人々に訴えかける力を持ったかが、明らかになるように思います。

2015年5月4日月曜日

ブログの引越しのお知らせ


先にブログの引越しをお知らせしました。

その後、いろいろ調べてみたところ、現状では、このブログがGoogle検索に、ヒットしないことがわかりました。旧URLで、必要な処置を飛ばして、急いで引越しをしたためです。

これを機会に新しいブログを立ち上げることにしました。こちらのブログは「万葉集と古代の巻物」のタイトルをそのまま継承して、『万葉集』と書物学に関わる話題を、書き継いでゆきたいと思います。

6 May 2015

小川靖彦


2015年4月11日土曜日

陸軍特別攻撃隊員・穴沢利夫少尉が婚約者に贈った『萬葉集』

知覧からの手紙
(水口文乃『知覧からの手紙』新潮文庫、新潮社、2010年)

戦争下の『萬葉集』

『萬葉集』の近代

2014年4月に、私は『万葉集と日本人』(角川選書)を上梓しました。平安時代から近代まで、『萬葉集』がどのように読み継がれてきたかを考察した本です。

考察を進める中で胸をしめつけられたのが、近代日本における『萬葉集』の受容でした。明治時代に“『萬葉集』は日本人の祖先が、天皇から庶民に至るまで、素朴な心をありのままに強い調べで歌った「国民的歌集」”とされました。そして、日中戦争・太平洋戦争時には、『萬葉集』は「国民」の心を支える歌集となってゆきました。

『萬葉集』は政府と軍によって戦意高揚のために政治利用されました。しかし、それだけはでなく、戦争下を生きる人々の心の深いところにまで関わっていたのです。


特攻と『萬葉集』

それを教えてくれたのが、水口文乃(みづぐちふみの)氏の『知覧からの手紙』(新潮文庫、2010)です。昭和18年(1943)10月に志願して陸軍航空隊に入隊し、20年4月の沖縄特攻に出撃して帰らぬ人となった学徒出身の少尉穴沢利夫(あなざわとしお)さんと、婚約者伊達智恵子(だてちえこ)さんの戦争下の生を、智恵子さんのことばをベースに描いた労作です。

ふたりの心を支え、結び付けていたのが『萬葉集』です。穴沢さんは陸軍合格を伝える手紙で、喜びの中にも智恵子さんを想い揺れる心を大伴旅人(おおとものたびと)の「ますらをと 思へる吾や 水(みづ)(くき)の 水城(みづき)の上に 涕(たみた)(のご)はむ」(巻6・968)に託しました。

特攻隊に指名された穴沢さんを訪ねて詠んだ、来世での再会を希(ねが)う智恵子さんの絶唱、

  わかれてもまたもあふべくおもほへ(ママ)ば心充(み)たされてわが恋かなし

                                      (来世への希(ねが)ひ)

は、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌「
別れても 復(また)も逢ふべく 思ほえば 心乱れて 吾(あれ)恋ひめやも」(巻9・1805)を踏まえたものです。

『註解萬葉集』

水口氏のご厚意で、穴沢さんが陸軍航空隊入隊の際に智恵子さんに贈った『萬葉集』を拝見する機会を得ました。

驚いたことに、それは佐野保太郎(やすたろう)(高知高等学校長)・藤井寛『註解萬葉集』(藤井書店、1942、1943〈再版〉)でした。幕末の国学者鹿持雅澄(かもちまさずみ)の『萬葉集古義(こぎ)』の訓を本文に、全歌を一冊に収め、語義や訓の異同も注記する、A5判850頁からなる専門性の高い本です。

この本には智恵子さんによると思われる赤鉛筆の印や、黒の万年筆の印と書き込みがあります(もちろん968番歌には濃い赤鉛筆の印があり、索引で1805番歌の所を万年筆で二重に囲んでいます)。印の付けられた歌は、当時よく読まれた勇壮なものもありますが、その多くは〈待つ恋〉の歌です。

「自分の意志ではない人生」(『知覧からの手紙』)を生きる悲しみを、〈待つ恋〉の歌の嘆きと祈りに重ね合わせたのでしょう。

智恵子さんは2013年に永眠されました。今、戦争下の『萬葉集』を見つめ直すことの大切さを痛切に感じています。


*この記事は、青山学院大学日本文学会会員向けの『会報』第49号(2015年3月19日発行)に「戦争したの『萬葉集』」のタイトルで掲載されたものです。伊達智恵子さん愛蔵の『萬葉集』を拝見する機会を賜りました上、『青山学院大学日本文学会会報』へのその報告の掲載、その記事の、ブログ「万葉集と古代の巻物」への転載をお許しくださった水口文乃氏に、心より御礼申し上げます。
��穴沢利夫少尉は、昭和20年(1945)4月12日に出撃戦死しました。同年4月9日の日記と、16日に伊達智恵子さんのもとに届いた遺書には、出撃を前に読みたい本として、
  『萬葉集』
  『芭蕉句集』
  高村光太郎詩集『道程』(*大正3年〈1914〉10月、感情詩社刊)
  三好達治詩集『一点鐘』(*昭和16年〈1941〉10月、創元社刊)
  大木実詩集『故郷』(*昭和18年〈1943〉3月、桜井書店刊)
    *大木も海軍の兵士として出征しました。
      戦争の時代を、生活者として、自分の心に誠実に生きた詩人の、静かで感動的な作品集です。

が挙げられています(それらは、もはや穴沢少尉の手元から離れていました)。最後まで『萬葉集』を読みたいと願っていた穴沢少尉の心に、胸が痛みます。ご冥福を心よりお祈りします。(2015年4月12日記)

2014年8月3日日曜日

齋藤瀏『万葉名歌鑑賞』と検閲

萬葉名歌鑑賞1
(3種類の『万葉名歌鑑賞』。左から増補改訂版6版、増補改訂版初版、初版)

検閲を受けた額田王の歌の鑑賞

先の記事「1925~1945年の『万葉集』の鑑賞書」で、元陸軍軍人の歌人・齋藤瀏の『万葉名歌鑑賞』のついて、論文をまとめたことを記しました。

その後、歌人の内野光子氏の『短歌と天皇制』(風媒社、1988年)に収められた、昭和発禁歌集に関する精細な調査・研究を目にし、瀏の『万葉名歌鑑賞』も警察による削除処分の対象になっていたことを知りました。

内野氏の調査によれば、『改訂増補 万葉名歌鑑賞』(「増補 万葉名歌鑑賞」とも)は、1942年(昭和17)6月17日に100頁ほか3頁が削除の処分を受けています。

瀏の著書は他にも、歌文集『肉弾は歌ふ』(八雲書林、1939年12月25日刊)も1939年12月30日に削除の処分がなされています。内野氏は、戦時体制の一翼を担っていた瀏の「著書にすら検閲の眼は届き、削除処分に付したほど当局の力は絶対であった」と指摘しています(45頁)。

内野氏は、『改訂増補 万葉名歌鑑賞』の削除部分について、「額田王の章で、作品に触れて大海人皇子と天智天皇との関係が述べてられいる箇所と思われる」と述べましたが、削除前の版が未見のため、詳細は今後の課題とされました(46頁)。

そこで、私の手元にある『改訂増補 万葉名歌鑑賞』を確認しましたところ、初版と異同はありませんでした。それもそのはず、私の『改訂増補 万葉名歌鑑賞』は、検閲前の1942年5月10日発行の改訂増補版の初版であったからです。

急いで、検閲後の、1943年1月20日発行の改訂増補版の6版を入手しました。これを見て驚きました。

まず、奥付に記された発行部数です。

印刷 昭和17年5月5日
発行 昭和17年5月10日
再版 昭和17年6月25日 〔*検閲後の最初の版〕
��版 昭和17年7月10日(2,000部)
��版 昭和17年8月20日(2,000部)
��版 昭和17年12月1日(2,000部)
��版 昭和18年1月20日(3,000部)

1942年7月から半年の間に9,000部もが印刷されています。この時期には、ミッドウェー海戦での敗戦(6月5日~7日)、ガダルカナル島撤退の決定(12月31日、撤退は翌年2月から)などによって、太平洋戦争の戦局が決定的に変化しました。しかし、日本国民は多くを知らされぬまま、戦争の遂行を支えようとしていました。こうした状況の中で、『増補改訂 万葉名歌鑑賞』が人々の心を強く捉えていたことが窺えました。

そして、検閲による本文の変更は、確かに行われていました。変更箇所は、下に【資料】として示した通りです。変更は、どれも額田王の歌の解釈にかかわるものです(*『万葉集』の読み下しは、『増補改訂 万葉名歌鑑賞』に拠ります)。

あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる(巻1・20)
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなむ 隠さふべしや(巻1・18)


瀏は、20番歌を、額田王の、大海人皇子を思慕した歌で、「野守」(野の番人)は天智天皇のことを暗示すると解釈しました。また、近江大津宮遷都の旅で、大和の三輪山に別れを告げる18番歌には、大海人皇子への別れを悲しむ心が裏にあると捉えました。三輪山を隠す「雲」は、やはり天智天皇を暗示しているととっています。つまり、瀏はこれらの歌に、額田王をめぐる天智天皇と大海人皇子の三角関係を見ようとしたのです。

検閲後には、三角関係にかかわる直接的な表現が、いちじるしく薄められ、全体的にぼんやりとしたものなっています。検閲した警察は、二人の天皇を巻き込んだ愛情関係をもつれを、はっきりと表現することを禁じたのでしょう。

しかし、検閲後のぼんやりとした6版でも、瀏が三角関係の解釈をとっていることは、明らかに読み取れます。検閲が、内容そのものというより、言い回しや表現の仕方にこだわった、形式主義的なものであったことがわかります。

『増補改訂 万葉名歌鑑賞』の変更箇所からは、「検閲」というものの忌まわしさと、些末さが、生々しく感じられます。そして、その些末さは、決してあなどれるものではないと思います。

萬葉名歌鑑賞2


【資料】齋藤瀏『増補改訂 万葉名歌鑑賞』の検閲による本文の変更
*字体は常用漢字体・通行字体に改めた。「/」は2行からなる注の改行箇所を示す。
��なお、初版の本文は、増補改訂版初版と同じ。


1.100頁7行目(額田王の巻1・20番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 額田王は鏡王女の妹で、大海人皇子の寵を受け、十市皇女を生み、後天智天皇に召された。
〔増補改訂版6版〕
 額田王は鏡王女の妹で、大海人皇子に知られて、十市皇女を生み、後天智天皇に召された。
※画像のように、6版の「知られて」が文字の軸は、行の軸から微妙にずれています。活字を植え直したことがわかります。
萬葉名歌鑑賞検閲前(増補訂正版6版)  萬葉名歌鑑賞検閲後(増補訂正版初版)


2.101頁6行目~13行目(6版では~14行目)(額田王の巻1・20番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 扨て此の歌で「君」は誰と言ふか。袂をふつたその君は誰か。それは恐らく天皇でなく、天皇に従つて居られた大海人皇子と見るべきであらう。野守は見ずや――誰か見とがめはせぬかと気遣ふのを見ると、どうしても、大海人皇子と見るのが適当である。従つて、「野守」も此の文字通り野の監視人かどうか、勿論監視人でもよいが、人払ひをした(標野)野である。額田王の心配なのは天皇であり、そのお付きの人々である。今日の此の野守り、――此の野の支配者――天皇――と通ふ所が無いだらうか。とすれば此の歌は益々よく判る。従つて大海人皇子の「むらさきの匂へる妹を憎くあらば人妻故にあれ恋ひめやも」の歌がなくとも、この歌は大海人皇子の愛の表現に対しての心遣ひの歌であることは疑ふ余地はないと思ふ。
〔増補改訂版6版〕
 扨て此の歌で「君」は誰を言ふか、袖をふつたその君は誰か、当時そこには、天皇も在らせられ、又天皇に御伴した、皇弟の大海人皇子も在らせられる。此の袖をふられた君を誰と決ること、そして野守は見ずやと気にかけて居る野守が、そこの標野の看視人か、又他の人かを決めること、その決め方が作者額田王の御心に合する時に、此の歌の生命が把握出来るのであらう。
 萬葉集には、皇太子(天智天皇の皇太子/即大海人皇子)の答へたまふと題して次の歌がある。
    紫(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人嬬(ひとづま)ゆゑに吾(われ)恋ひめやも
 此の歌で、妹とは額田王をさされたのである。当時額田王は 天皇召されて、此の野に御伴をされて居た。紫草のにほへる如き妹が憎いなら、人の嬬であるから恋ひはしないと言ふのである。この歌を以て前歌に答へられたのであるとすれば、前歌の心も自ら判るであらう。
※『増補改訂 万葉名歌鑑賞』は、1頁13行取りです。6版ではこの102頁と、次に挙げる104頁に限り、14行取りとなっています。また、6版では「天皇」の前が「欠字(けつじ)」(高位者への敬意を表すために、その名の上に1文字分程度のスペースを置くこと)となっています。

3.104頁12行目~105頁10行目(額田王の巻1・18番歌の解説中)
〔増補改訂版初版〕
 此の歌全般のリズムを味ふ時、そして此の歌の作歌動機に就きて思ひを深めると、表面は三輪山に名残を惜しんで居られるが、裏面は大海人皇子に寄する哀別の情がまぎれなく隠されて居(*』104頁)る。単なる三輪山に対しての情としては激切すぎる。「しかも」「隠す」「だにも」「あらなむ」「べしや」等の語の力を味ふとき、どうしてもこれを否定することは出来ぬと思ふ。
 実に此の歌は大海人皇子に対する心を眼前の景によつて表して居るが、私は更に「雲だにも心あらなむ」の句の雲、此の雲、今大海人皇子と額田王との別を余儀なくする雲と、かく思ひを及ぼす時、此の雲の裏には天智天皇が在すのではないかとさへ思ふのである。
 況んや天智天皇もお情ある方だ――さうむげに――だから、また逢ふこともあらう――。此のことは額田王の自慰となり、大海人皇子への慰めとなり、天智天皇への哀願となる。かく思ふことを許されるなら雲、だにもは重大な句である。
 額田王の苦しき立場、その立場から来る深刻複雑な心の動きが底にあつて、かゝる歌と現れたのではなからうか。強く胸に迫る歌である。
〔増補改訂版6版〕
 三輪山は、三輪川と穴師川との間で、今の三輪町の東にあり。穴師川を隔てて人麿の歌で知らるる、弓月嶽、纏向山に対して居る。此等は磯城、山辺両郡に属する大和平野の東部山岳地帯である。此の山岳地帯の根を紆余曲折、畝を越へ、河を渡つて、南北に連なる道が所謂山辺の道で(*』104頁)ある。
 此の道は、四道将軍の大彦の命や、丹波道主命も通り、或は此歌の作者額田王も、その泣きぬれた眼で、三輪山を振り帰り振り帰り眺めつつ、大津の宮へと旅ゆかせられたのではあるまいか。彼の人麿は妹を別を惜しんで
    石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
 と詠んで居る。是は対照(ママ)が人であり、額田王の対照(ママ)は三輪山である。三輪山であるが、然し、眼は三輪山に向いて居て、心はどこに向いて居たであらう。此の激切な表現によつて見れば、単純に三輪に対しての情のみとは受け取り難いものがあると思ふ。
 此の歌はそれ故、額田王の苦しき立場、その立場から来る深刻複雑な心の動きが底にあつて、かゝる現表となつたものと思ふ。強く胸に迫る歌である。